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遠州灘で獲れる海の幸をはじめ、浜名湖で水揚げされる活きのいい魚がふんだんに味わえる魚料理専門「魚魚一」は、地元の人はもとより多くの県外客でいつも賑わう。
魚魚一が創業以来、大切にしている「こだわり」が、地元・浜松への愛情と「地産地消」の心意気だと言う。
浜松ならではの素材や料理を大事にし、その食の魅力を全国に広めることを料理人として
の、自身の使命の一つに位置付けている。
そして今、果敢な挑戦意欲で新たな料理を生み出してきた新進気鋭の料理人が情熱を燃やすのが、浜松の食文化の新たな担い手となる若手の育成だ。
魚魚一が創業以来、大切にしている「こだわり」が、地元・浜松への愛情と「地産地消」の心意気だと言う。
浜松ならではの素材や料理を大事にし、その食の魅力を全国に広めることを料理人として
の、自身の使命の一つに位置付けている。
そして今、果敢な挑戦意欲で新たな料理を生み出してきた新進気鋭の料理人が情熱を燃やすのが、浜松の食文化の新たな担い手となる若手の育成だ。
人財の成長によって地元を元気にする「魚魚一イズム」について代表の仲村氏に話を聞いた。
《以下、取材記事内容です》
—創業に至る仲村社長の経緯について教えてください。
私は飲食業界に飛び込んだ年に一つの目標として、30歳までには独立して自分の店を開業する。
そして店を出すのは生まれ育った浜松と心に決めていました。
自分の店を繁盛させることで地元を元気に浜松をもっと活気ある街にしたい。
そして開業した店を浜松の地域一番店にすることを目標に、2001年6月8日飲食店がひしめく繁華街の激戦区肴町に魚魚一を開業しました。
—魚魚一の名前の由来は?
屋号の命名は、女将でもある私の妻のなにげない一言が、きっかけでした。
肉を使わず、魚だけで勝負すると決めていた私は、魚にちなんだ名前にしたかったんです。
そこで地方にもよると思いますが、おじいちゃんやおばあちゃんが、お孫さんに小さな魚を指さして「とっと」とか「おとと」と呼ばせていることにヒントを得て、名もない小さな店を始める私達にはピッタリだなと感じ、魚を二つ並べて「とと」としました。
そして、いつかは地域で一番の店になってやろうという気持ちで「一」をつけた訳です。
魚魚一と書いて「とといち」と呼ばせるには最初は躊躇したんですが、一度読み方を覚えていただければ、忘れられないかなという想いもありましたね。
—どのような店にしたいと考えましたか。
まず食材の宝庫である浜松で商売をする以上、南に広がる遠州灘、東に流れる天竜川、北にそびえる南アルプス、そして西には全国的にも名が知られた浜名湖を活かしたいと考えていました。
さらに、静岡県は農産物・海産物の種類が日本一なんです!!
とりわけ浜松は静岡県を代表する食の宝庫。
その為、魚の鮮度と品質にはこだわり、遠州灘や浜名湖から水揚げされる地元のものを中心に県内外からも仕入れてます。
そんな浜松の食の力を全国に伝えれる店にしたいという強い想いはありました。
また浜松は戦国時代「徳川家康公」が、浜松を足掛かりに天下統一を果たした事で、出世の街と呼ばれ、それ以降は世界的な有数のメーカーを輩出した起業精神にあふれた街なんです。
「やらまいか」という言葉があるように新しいことに果敢にチャレンジする開拓精神が根付いています。
私も飲食の世界で名を残せるような有名なお店にしたいですね。
—御社が魚料理にこだわったのはなぜですか。
私自身もともと大の魚好きなのですが、実は浜松には魚を本格的に食べさせてくれる店が
それまであまりなかったのです。
寿司屋はあるものの、純粋に魚を食べたい時に行きたい専門店がない。
「じゃぁ!! 自分がそのジャンルを切り開こう!!」と思い立ったのが最初でしたね。
また魚料理の専門店を開くことによって、浜松の素晴らしい食材に光が当たってほしい。
それを地元の人に再発見してもらいながら、全国の人に広く知らせたいと思ったんです。
—浜松での知名度はかなりのものとお聞きしますが、何か秘訣でもあるのですか。
そうですね。まず魚魚一を開業してすぐに、お店のホームページ(HP)の制作に取りかかり、お店の魚料理を全国に向けて情報発信を積極的にすることをしました。
おそらく浜松で個人の料理屋がHPを作ったのは、結構速い方ではないかと思います。
インターネットを使って、浜松の魚料理を全国に広めたいという気持ちで夢いっぱいでしたね。
また浜松は、全国からビジネスマンが出張にやってくる中核都市でもあるので、その意味でもネットでいち早く魚魚一の魚料理の魅力を県外に発信していったことは、集客の面でも理にかなった方法だったんですね。
—仲村社長はどのような理由で料理の道に入ったのですか?
私は飲食業界に飛び込んだ年に一つの目標として、30歳までには独立して自分の店を開業する。
そして店を出すのは生まれ育った浜松と心に決めていました。
自分の店を繁盛させることで地元を元気に浜松をもっと活気ある街にしたい。
そして開業した店を浜松の地域一番店にすることを目標に、2001年6月8日飲食店がひしめく繁華街の激戦区肴町に魚魚一を開業しました。
—魚魚一の名前の由来は?
屋号の命名は、女将でもある私の妻のなにげない一言が、きっかけでした。
肉を使わず、魚だけで勝負すると決めていた私は、魚にちなんだ名前にしたかったんです。
そこで地方にもよると思いますが、おじいちゃんやおばあちゃんが、お孫さんに小さな魚を指さして「とっと」とか「おとと」と呼ばせていることにヒントを得て、名もない小さな店を始める私達にはピッタリだなと感じ、魚を二つ並べて「とと」としました。
そして、いつかは地域で一番の店になってやろうという気持ちで「一」をつけた訳です。
魚魚一と書いて「とといち」と呼ばせるには最初は躊躇したんですが、一度読み方を覚えていただければ、忘れられないかなという想いもありましたね。
まず食材の宝庫である浜松で商売をする以上、南に広がる遠州灘、東に流れる天竜川、北にそびえる南アルプス、そして西には全国的にも名が知られた浜名湖を活かしたいと考えていました。
さらに、静岡県は農産物・海産物の種類が日本一なんです!!
とりわけ浜松は静岡県を代表する食の宝庫。
その為、魚の鮮度と品質にはこだわり、遠州灘や浜名湖から水揚げされる地元のものを中心に県内外からも仕入れてます。
そんな浜松の食の力を全国に伝えれる店にしたいという強い想いはありました。
また浜松は戦国時代「徳川家康公」が、浜松を足掛かりに天下統一を果たした事で、出世の街と呼ばれ、それ以降は世界的な有数のメーカーを輩出した起業精神にあふれた街なんです。
「やらまいか」という言葉があるように新しいことに果敢にチャレンジする開拓精神が根付いています。
私も飲食の世界で名を残せるような有名なお店にしたいですね。
—御社が魚料理にこだわったのはなぜですか。
私自身もともと大の魚好きなのですが、実は浜松には魚を本格的に食べさせてくれる店が
それまであまりなかったのです。
寿司屋はあるものの、純粋に魚を食べたい時に行きたい専門店がない。
「じゃぁ!! 自分がそのジャンルを切り開こう!!」と思い立ったのが最初でしたね。
また魚料理の専門店を開くことによって、浜松の素晴らしい食材に光が当たってほしい。
それを地元の人に再発見してもらいながら、全国の人に広く知らせたいと思ったんです。
—浜松での知名度はかなりのものとお聞きしますが、何か秘訣でもあるのですか。
そうですね。まず魚魚一を開業してすぐに、お店のホームページ(HP)の制作に取りかかり、お店の魚料理を全国に向けて情報発信を積極的にすることをしました。
おそらく浜松で個人の料理屋がHPを作ったのは、結構速い方ではないかと思います。
インターネットを使って、浜松の魚料理を全国に広めたいという気持ちで夢いっぱいでしたね。
また浜松は、全国からビジネスマンが出張にやってくる中核都市でもあるので、その意味でもネットでいち早く魚魚一の魚料理の魅力を県外に発信していったことは、集客の面でも理にかなった方法だったんですね。
—仲村社長はどのような理由で料理の道に入ったのですか?
高校生の時にアルバイトをいろいろ経験したことですかね!
なかでも喫茶店やファーストフード店で、お客様に「美味しい」と言ってもらえる喜びを知ってから、料理の道を目指したいと思うようになりました。
そして調理師の専門学校を卒業後、数々の老舗や名店で12年の修業を経験。
皿洗いから始まって、師匠や先輩方の身の周りのことまで全てやらされる厳しい毎日で
一緒に入った同期が3年で7~8割辞めていくという厳しい世界でしたね。
でも私は師匠や先輩に恵まれていたと思います。
料理の技術もそうですが、人としてお客様に接していく上で大切なことを日々教わることができました。
なかでも喫茶店やファーストフード店で、お客様に「美味しい」と言ってもらえる喜びを知ってから、料理の道を目指したいと思うようになりました。
そして調理師の専門学校を卒業後、数々の老舗や名店で12年の修業を経験。
皿洗いから始まって、師匠や先輩方の身の周りのことまで全てやらされる厳しい毎日で
一緒に入った同期が3年で7~8割辞めていくという厳しい世界でしたね。
でも私は師匠や先輩に恵まれていたと思います。
料理の技術もそうですが、人としてお客様に接していく上で大切なことを日々教わることができました。
—具体的にはどのようなことが?
ある日、自分が出した料理にお客様からクレームが入り、師匠が座敷に謝りに行ったことがありました。
厳しい方なので帰ってきたら絶対に怒られるなと覚悟したんです。
でも師匠は戻ってくるなり私の目を見て、お前が今回経験したことは、失敗ではなく《学びの経験》だ。しかし二度とするな。そして、この教訓を次につなげろ!!
とだけ言って、その場を離れたんです。その言葉を聞いて目頭が熱くなりましたね。
自分自身の励みになると同時に、将来自分が弟子をもって上に立つようになったら同じようなことが言える人間になっていたいと思いました。
今、私の部下である社員さんが、毎日頑張って働いてくれています。
いつもこの時のことを思い出して肝に銘じていますね。
—板前としての技術はどう吸収していったのでしょうか?
料理人の技術と知識は、毎日の地道な作業によって培われるもので、いくら才能があっても、それを開花させるのは努力であり、努力とは日々の地味な仕事の積み重ねです。
近道なんてありません。コツコツとやるしかないんですね。
私たちの修行時代は、技術は直接教えてもらえませんでしたから、自分から見て盗むしかありません。
だから私は同期よりも毎朝1~2時間先に板場に入り、そこで自分の仕事を済ませてから
尊敬できる先輩に1日ベタ付きで見て覚えました。
夜は現場に残って、見たことを実際に自分でやってみる。
そしてわからないことや失敗したことを課題にして、次の日に再びじっくり見る。その繰り返しです。
先輩からは、毎日「しつこい」「邪魔だ」と言われて嫌な顔をされながらも、次第に可愛がってもらえるようになりました。
そうやって一人前になっていきました。懐かしいですね。
お客様の満足度を限りなく高める工夫を社員と一緒に考えてきたことだと思います。
常に新しいものを探究することを忘れず、失敗を恐れずに挑戦してきました。
他店がやらないことや、考え付かない事を生み出してきたことですね。
その一つが、当社が登録商標を取得している「うなぎの刺身」です。
1年がかりで試行錯誤して商品開発をしました。
今では全国から集客できる当店の看板料理となっています。
当時「浜松で魚料理を食べるなら魚魚一」という評判をいただいてはいたものの、お店のシンボルになるような料理が欲しいと考えていたんです。
そして思考錯誤を重ねた結果、やはり浜松なら「鰻」を活かそうという考えになりました。
同時に、まだ誰もやっていない鰻の新料理。浜松の新名物を作ろうと考えたんです。
そして研究と挑戦を何度も重ね、鰻を刺身で食べられる独自の調理法を編み出しました。
白身に脂がのったような美味しさで、程よい弾力で歯ごたえがあり上品な脂の甘さが口に広がる。
肉でいえば霜降りの味わい。魚魚一が誇る《浜名湖うなぎの刺身》なんです。
常に新しいものを探究することを忘れず、失敗を恐れずに挑戦してきました。
他店がやらないことや、考え付かない事を生み出してきたことですね。
その一つが、当社が登録商標を取得している「うなぎの刺身」です。
1年がかりで試行錯誤して商品開発をしました。
今では全国から集客できる当店の看板料理となっています。
当時「浜松で魚料理を食べるなら魚魚一」という評判をいただいてはいたものの、お店のシンボルになるような料理が欲しいと考えていたんです。
そして思考錯誤を重ねた結果、やはり浜松なら「鰻」を活かそうという考えになりました。
同時に、まだ誰もやっていない鰻の新料理。浜松の新名物を作ろうと考えたんです。
そして研究と挑戦を何度も重ね、鰻を刺身で食べられる独自の調理法を編み出しました。
白身に脂がのったような美味しさで、程よい弾力で歯ごたえがあり上品な脂の甘さが口に広がる。
肉でいえば霜降りの味わい。魚魚一が誇る《浜名湖うなぎの刺身》なんです。
—斬新な挑戦だったのですね。
当初、鰻の刺身と聞いて従業員の中にも疑問視する声は少なくありませんでした。
けれども、私の座右の銘は「案ずるより産むが易し」「成せばなる」です。
「食べたこともないのに、なぜまずいと分かる?」「やってもいないことをダメだと決めつけるな!」という想いが沸々と強く湧いてきましたね。
誰もやらなかったことに挑戦してみよう!新たな価値を生み出してみせる
その想いが実を結んだ《浜名湖うなぎの刺身》は、浜松の新しい郷土料理として注目されています。
—仲村社長の人財観を教えてください。
会社とは社員が主役でなければいけないというのが私の信念の一つです。
社長が前面に出るのでなく、社員に責任感をもたせて、実際にやらせてみなければ何も始まらないと考えていて、前向きな失敗にはいい意味で目をつぶる。
そう考えて私は少し前から現場の一線から退くことにしました。
それまでは9割が職人で、1割が経営者の思考だったのが、今は経営者9割で職人が1割。
私自身が考え方を変えることで、従業員が自覚をもって成長してくれるようになったと思います。
なによりも素晴らしい従業員に恵まれて本当に幸せ者だと実感しています!!
—社員にはどのように成長してほしいですか?
当社に入って来る社員の多くが独立希望で、やる気と向上心のある子が多く、繁盛店に入ってその秘訣を身に付けたいと考える若者がほとんどです。
当然、お店としては長く勤務してもらえることが一番ですけど、夢を叶える為に独立する。
私はそれでいいと思っています。
うちで頑張って技術を身に付けてやがて独立してくれればいいのです。
上司が部下を、先輩が後輩を教えていく。
人が人を育てていくことで、会社という組織は大きくなると感じています。
だからこそ、成長して自分で店を経営したい。独立して開業したいと考える人に来てほしいと思っています。
それと、お客様の心をつかめる人に成長してもらいたいですね。
お客様は料理を食べにくるわけですが、それは同時に当社の社員と接することでもあります。
お客様との心の距離が近いことは、おいしい料理を提供することと同じくらい大切だと思っています。
最近、うちの社員に会いにきてくれるお客様も増えてきて、上司として誇りに感じています。
料理の腕だけでなく、ファンをつくれる人間力も磨いてほしいですね。
従業員は、年齢からすると私の子供に近いくらいでしょう。
教えていると「我が子」という想いがしてみんな誇らしいんです。
うちで修業した若い子が独立して成功してくれるのが自分にとって、なによりのご褒美ですね。
これからも、ともに成長できるよう切磋琢磨して見本となれるよう精進したいと思います。
当然、お店としては長く勤務してもらえることが一番ですけど、夢を叶える為に独立する。
私はそれでいいと思っています。
うちで頑張って技術を身に付けてやがて独立してくれればいいのです。
上司が部下を、先輩が後輩を教えていく。
人が人を育てていくことで、会社という組織は大きくなると感じています。
だからこそ、成長して自分で店を経営したい。独立して開業したいと考える人に来てほしいと思っています。
それと、お客様の心をつかめる人に成長してもらいたいですね。
お客様は料理を食べにくるわけですが、それは同時に当社の社員と接することでもあります。
お客様との心の距離が近いことは、おいしい料理を提供することと同じくらい大切だと思っています。
最近、うちの社員に会いにきてくれるお客様も増えてきて、上司として誇りに感じています。
料理の腕だけでなく、ファンをつくれる人間力も磨いてほしいですね。
従業員は、年齢からすると私の子供に近いくらいでしょう。
教えていると「我が子」という想いがしてみんな誇らしいんです。
うちで修業した若い子が独立して成功してくれるのが自分にとって、なによりのご褒美ですね。
これからも、ともに成長できるよう切磋琢磨して見本となれるよう精進したいと思います。
—今後のビジョンを教えてください。
地域一番店になり、浜松の優れた食文化を全国のお客様に届ける。
そのことで多くの人を幸せにすることが、私のミッションだと思っています。
通販やケータリングなどに力を入れているのも、魚魚一の料理の素晴らしさを、1人でも多くの人に知ってもらいたいという想いがあるからです。
それを実現していくためにも多くの若者が魚魚一で修業をして独立していってほしい。
お客様から「どこで修業したの?」と聞かれ「魚魚一です」と答える。
そしてお客様から「だから腕が確かなんだね」と言ってもらえるような店を、どんどん増やしたいですね。
社員の成長次第で夢は無限大です。魚魚一の、のれん分けや独立開業など、どんな形であれ志を高くもち、社員が自分の腕で主役になれる場をどんどん作っていきたい。
浜松を意識の高い夢のある店でいっぱいにすることが、私のビジョンでもあります。
■仲村 健太郎(なかむら けんたろう)
1969年、静岡県浜松市で誕生
調理師学校を卒業後に、地元の高級旅館、京都や大阪の料亭で修業。
さらに海外(香港)の日本料理店でも活躍し腕を磨く。
2001年に31歳で地元浜松に《魚料理専門 魚魚一》を開業。
浜松有数の魚料理専門店として高い知名度を誇るまでに成長を遂げた。
現在は後進の育成に情熱を注ぐとともに、地元で活躍する若いシェフや料理人と街の活性化に取り組む「浜松ブランドフードフェス」や「遠州濱松 家康会」を主導するなど、浜松の食材・料理を全国に広める活動を展開。
また飲食店の経営コンサルタントや調理師学校講師としても活躍するなど活動の幅を広げている。2012年静岡県知事推薦「ふじのくに 食の都づくり仕事人」に選出
調理師学校を卒業後に、地元の高級旅館、京都や大阪の料亭で修業。
さらに海外(香港)の日本料理店でも活躍し腕を磨く。
2001年に31歳で地元浜松に《魚料理専門 魚魚一》を開業。
浜松有数の魚料理専門店として高い知名度を誇るまでに成長を遂げた。
現在は後進の育成に情熱を注ぐとともに、地元で活躍する若いシェフや料理人と街の活性化に取り組む「浜松ブランドフードフェス」や「遠州濱松 家康会」を主導するなど、浜松の食材・料理を全国に広める活動を展開。
また飲食店の経営コンサルタントや調理師学校講師としても活躍するなど活動の幅を広げている。2012年静岡県知事推薦「ふじのくに 食の都づくり仕事人」に選出